建暦元年(1211年)に越中三坊主の一人である願海房信性(がんかいぼうしんしょう)が開基。
願海寺の開基である初代・願海房信性は、俗名を村上権兵衛由清(むらかみごんのひょうえよしきよ)といい、1159年頃に京都で生まれました。由清は、後白河院の近臣(きんしん)であり久しく公卿(くぎょう)にあって宮中に仕えていましたが、1191年に他の者の讒言(ざんげん)により越後の国・頸城郡新井(くびきぐんあらい・現在の新潟県妙高市)に左遷(させん)されました。
それから16年が経った1207年には、京都で起きた念仏弾圧により流罪となった親鸞聖人が越後国国府(現在の新潟県上越市)に来られ、翌1208年、由清は親鸞聖人との出会いにより出家し弟子となりました。
居多ヶ浜(こたがはま)の舟中で聖人の教化をいただき「本願の深く広いことは、弥陀の智願海である」と願海房という房号と信性という名を与えられたそうです。
1211年に親鸞聖人の流罪が勅免となり、聖人は関東へと布教に移られる際に願海房に対し「汝は越中に至り、彼の地に弥陀の本願を伝うべし」とおさとしになり越中布教を託されました。
そのとき親鸞聖人真筆の九字と十字の名号を頂戴しました。
(歴史の歩みの中で九字名号は失われてしまいましたが、十字名号は当寺に現存しております。)
越中へ移った願海房は新川県栃津(現在の立山町栃津)に一寺を建立し布教に励み、1239年に81歳で往生されました。
1261年には京都に戻っておられた親鸞聖人が90歳で往生されます。
御看病に伺っていた願海房二代目・清寿は親鸞聖人の娘・小黒の女房さまの子で聖人の孫にあたるため、聖人の娘・覚信尼さまより聖人の御分骨を頂戴し、栃津の地にて丁寧にご供養します。
1394年、願海房五代・信誓が、本願寺六代・巧如上人より宗祖の御影と、願海寺という寺号を頂きました。また、願海寺六代・巧賢が本願寺六代・巧如上人の子であることから願海寺では「巧」の字を代々受け継ぐことになりました。
願海寺は栃津に150年ほどあった後、1360年頃に小出(現在の富山市水橋小出)、塔の峅(立山町)、野積下牧(八尾町)、射水郡倉垣庄開発村(富山市願海寺)、砺波郡縄村などを戦乱の世の中で転々としましたが、江戸時代になり1662年に五番町(富山市五番町)に移ります。
その地には廃仏毀釈によって境内地を接収される1871年(明治4年)まで200年以上もありました。
1874年(明治7年)に現在の清水町三丁目の地に移ります。
1945年(昭和20年)8月1日、第二次世界大戦下の富山空襲による焼失もありましたが、再建ののち今日に至ります。
現在、第三十二代・村上巧隆がその法灯を受け継いでいます。
1159年頃 | 願海房(初代) 誕生 俗名:村上 権兵衛 由清(むらかみ ごんのひょうえ よしきよ) 村上源氏にして第62代村上天皇の皇子 具平親王の子孫であり、 摂政関白太政大臣 宗定公の孫 正二位大納言 雅房卿の息男であると伝わる。 |
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1173年承安三年 | 親鸞聖人、ご誕生 |
1191年建久二年 | 由清、後白河院の近臣であり久しく公卿にあって、宮中に仕えていたが、国清という人物の讒言(ざんごん)により、 越後の国 頸城郡新井(くびきぐんあらい)に左遷される。 ※現在の新潟県新井市 |
1207年建永二年(承元元年) | 親鸞聖人、承元の法難(法然聖人ら専修念仏者に加えられた弾圧で、4名が死罪、法然聖人、親鸞聖人ら8人が流罪)により越後に流罪) ※建永2年…建永2年10月25日に「承元」と改元 |
1208年承元二年 | 由清、親鸞聖人との出会いにより出家して弟子となる。 居多ケ浜(こたがはま)の舟中で聖人の教化をいただき「本願の深く広いことは、弥陀の智願海である」と由清に願海房という房号と信性という名を与えられる。 |
1211年建暦元年 | 親鸞聖人、流罪勅免 願海房信性に「汝は越中に至り、彼の地に弥陀の本願を伝うべし」とおさとしになり、聖人真筆の紺紙金泥の九字と十字の名号を添えて托される。 ※十字名号のみ当寺現存 |
1360年頃 | 立山町栃津の房舎より百五十年程して小出(富山市水橋小出)に新しく寺を建立。 |
1394年応永元年 | 五代・信誓、本願寺六代・巧如上人より宗祖の御影と、寺号 願海寺を頂く。 |
1573年天正元年 | 水橋小出の願海寺が上杉方の軍勢に焼き討ちされる。 中新川郡城山塔の峅(立山町)に三年、婦負郡野積下牧(八尾町)に暫く、難を避けて居を構える。 |
1578年頃? | 射水郡倉垣庄開発村(富山市願海寺)に移り住む。 末寺は三十八カ寺に達し、開発村は願海寺村と呼ばれるようになる。 |
1579年天正七年 | 一向一揆と対立していた寺崎民部は南隣にあって隆盛になりつつあった願海寺に焼き討ちをかける。 後に砺波縄村へ移る(詳細は不明) |
1596年慶長元年九月九日 | 加賀の城主より境内に殺生禁断の制札を立て、砺波郡縄村にて千俵の扶持を下付せらる。 後に水橋小出に移る(詳細は不明) |
1601年慶長六年七月 | 十五代・巧昌、本願寺十二代・准如上人より木仏尊像を頂く。 ※『越中真宗資料』 |
1604年慶長九年六月 | 十五代・巧昌、本願寺十二代・准如上人より聖徳太子・七高僧御影を頂く。 ※『越中真宗資料』 |
1609年慶長十三年七月 | 十六代・巧性、願海寺に立ち寄られた本願寺十二代・准如上人より願海寺の由緒について尋ねられ、その褒美として飛檐の位を頂く。 「准如様 慶長十三申七月 当国 御通り之節、私 十六代 巧性 ニ 由緒 被遊 御尋為 御褒美 拝領 仕候」 ※『越中真宗資料』 |
1640年寛永十七年 | 十六代・巧性、願主となり梵鐘を鋳造。(現存) 「越中国新川郡 太田保内 富山 新井山願海寺 願主 巧性 (トキニ)千時寛永十七辰暦 十一月六日」 |
1662年寛文二年三月二十四日 | 富山城主 淡路守利次方より富山市五番町(今の光厳寺西隣、中央小学校の場所)に、寺地600坪を拝領して小出から移る。 富山町絵図(寛文六年) |
????年 | 宗門の歴史の中で江戸時代に教団組織の法制化にともない、本末制度がしかれた際、中本山となり末寺に対する達旨及び木仏、色衣、袴の着用その他諸々の許可の通達得度の有無等の監督を司る。 |
1666年寛文六年十一月二十三日 | 十八代・巧玄、本願寺十四代・寂如上人より宗祖御絵伝を頂く ※『越中真宗資料』 |
1711年正徳元年四月五日 | 巧善(19代)、勧修宮より権律師に任ぜられる。 |
1762年宝暦十二 午年四月十七日 | 二十二代・巧寛、本願寺十七代・法如上人より湛如上人御影を頂く。 ※『越中真宗資料』 |
1805年文化ニ年 | 栃津と富山の門信徒が願主となり、栃津六角堂の燈籠 一対が作られる。(現存) 【左燈】 「文化ニ丑九月立」「願主 当村 文三郎 彦五良」※上段 「石工 馬瀬口村 甚右衛門」※下段 ※常願寺川左岸中流の馬瀬口村 石工 中川甚右衛門 【右燈】 「富山 町同行中 寄進」 『栃津親鸞上人分骨堂石造物調査報告』富山市教育委員会埋蔵文化財センター |
1832年天保三年 | 栃津六角堂の基壇の亀甲積石垣が作られる。 「天保三辰年」「上白岩村/石工 源治良」 ※石破源治郎『栃津親鸞上人分骨堂石造物調査報告』 |
1871年明治四年 | 廃仏毀釈により、五番町境内地が接収。 |
1874年明治七年 | 清水定舞合の跡地に移る。(現在の本堂がある富山市清水町三丁目) |
1877年明治十年十月九日 | 本願寺二十一代・明如上人、富山御巡教にあたり願海寺にて小休される。 |
1924年大正十三年四月 | 二十九代・巧昭、1928年(昭和三年)三月まで4年間、本願寺宗会議員を務める。 |
1945年昭和二十年八月一日 | 第二次世界大戦 富山大空襲により清水町の旧本堂および庫裡、焼失。 その後、都市計画のため寺地三百歩供出(現在の平和通り) |
1962年昭和三十七年 | 現本堂 再建、ならびに法中座敷などを建設。 |
※宝物類に関しましては、通常一般公開しておりません。