発行:2014年4月
こんにちは。桜の季節がやってまいりました。桜が花を咲かせるのは、1年のうちほんの10日ほどのみですが、桜の木は365日、ずっと頑張って生きています。
私たちも毎日、様々な境遇と出会い、辛いことも多いですが、与えられた今日という日を精一杯生かせて頂きたいですね!一生懸命な心は桜の花のように綺麗なことでしょう♪弦
これまでの5号まででは、初代・願海房信性から、6代・巧賢までの年代にすると1210~1430年ごろの約200年の出来事をご紹介致しました。願海寺が正式に「願海寺」という寺号を定めたのは5代・信誓のころ、1394年で、本願寺6代・巧如上人より寺号を頂いたとのことです。では、それまで寺はなんという名称だったかというと「願海房」でした。なので、初代の願海房信性の願海房は、寺の名前でもあり、また自分の名前でもあったということです。
現代の感覚からするとあまりピンと来ませんが、当時の僧は実名で呼ぶことをはばかる慣行があり、房号を通称として用いていました。なお、親鸞聖人の房号は善信房です(善信を房号と考えない説もあります)。
私たちが苦しんでいる原因でもある“欲望”は「自分」という存在から生まれています。では、その「自分」とは一体ナニモノなのでしょうか?
まず、世の中に存在する全てのものに、永遠に不変のものはありません。考えてみますと、「自分」を形成する身体も心も、一瞬一瞬ごと常に変化を繰り返しており、同じ状態をずっととどめているわけではないのです。
これを「諸行無常」といいます。
そして、心すらも常に移り変わりを繰り返しているのですから、自分を司る不変の“魂”や“我(アートマン)”といったものも存在しません。
これを「諸法無我」といいます。
この「諸行無常」「諸法無我」こそが、世の中の真理です。要するに、多少乱暴ですが、「自分なんて存在しないのだ」とも言えます。なのに、私たちは常日頃から「自分」という存在にがんじがらめになって“欲望”に振り回されています。それは、世の中の真理にはんしているというわけです。
「この家は自分の物だ。このお金は自分の物だ。この家族は自分のものだ。」など…心当たりはありませんか?私はあります(笑)。
でも、そんなものたちも、自分という存在すらも、今はいろんな要因が重なって存在していますが、明日には無くなってしまうかもしれないのです。
ですから、大切なものを思う気持ちは大事ですが、“執着”とならないように、絶えず自己の心模様を点検しておくことが必要です。
なもあみだぶつ♪