発行:2014年5月
こんにちは。突然ですが、昨日(4/28)私の友人が亡くなりました。一ヶ月前に元気に会っていたので、ただ驚くばかりです。そして、それほど人間の命とははかないものであり、私たちはつい当たり前に生きていると思いがちですが、世の中に当たり前なんてないのだと改めて痛感しています。
今日を生かされている事を見つめ直し、感謝の心を大切に今日を一生懸命に歩みたいものです。弦
願海寺6代・巧賢は、本願寺6代・巧如上人の子でありますので、本願寺7代・存如上人とは義理の兄弟、本願寺8代・蓮如上人からは伯父にあたります。そして、その蓮如上人(中興の祖としてもおなじみですね)が巧賢に宛てたお手紙が、福井県武生市のとあるお宅に現存しております!
しかも、なんとこのお手紙は、研究の結果1456年に書かれたものであると推測され、蓮如上人の残された数多くの書状の中で、現存する最古のものとされています。お手紙の内容は、巧賢が蓮如上人に送った贈り物に対するお礼、そして、本願寺8代宗主継職問題を示すとされ、これまで謎であった点の解明にも繋がる貴重な資料としての価値も持っています。
巧賢も蓮如上人も、ともに正室の子ではないという相似た境遇であったため、お互いが親近感を持っていたのであろうと考えられています。
私たちの生きる現代社会では、努力の上に努力を重ねる姿勢こそ称賛され、「発達・発展」にしか価値を見出さないような「文明至上主義」の考えが定着しています。もちろん、先人たちのご苦労によって、私たちは便利な暮しをさせて頂いています。ですが、現代社会の今の流れは本当に正しいのでしょうか?
極端な“努力や発展”によって非常に息苦しい社会となり、いよいよ年間3万人に近い人が自死によってその尊い命を失っています(平成25年は27,276人)。
私たち人間の心はとても不安定なものであり、その欲望は満たされることなく燃え続け、気付かないうちに極端な状態に傾いてしまいます。
ですから、常に自己の心の点検を怠らないことが大切なんですね。
お釈迦さまは、若い頃は一国の王子として何不自由のない快楽の生活を送られました。その後、出家されたお釈迦さまは、6年もの間、身体を痛めつける苦行に挑まれました。そこで悟られたのが極端な苦行にも、極端な快楽にも偏ってはいけないとする「中道(ちゅうどう)」でした。
「中道」とは“ちゅうとはんぱ”という意味ではありません。また、“(苦行と快楽の)中間の道”というのでもありません。
偏りのないものの見方を身につけ、“こだわり”に支配されない心を育む生き方なのです。「弦楽器は弦が緩すぎると心地好い音色を発しない。しかし、弦をきつく張りすぎると弦が切れてしまう。程よく弦を張ることによって美しい音色が生まれるのである」と、お釈迦さまは中道についてこのように説かれています。
「中道」とは“良い加減”というのが一番合っている表現でしょうか。
「中道」を歩むことにより、健やかな心で今日を生かせて頂きたいものです!
なもあみだぶつ♪