願海寺新聞 第26号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第26号

発行:2015年12月

こんにちは!いよいよ冬らしい寒さがやってきました。皆様の元にこの12月号が届く頃には、もうすっかり冬らしくなっているんでしょうね~。
さて、12月といいますとX’masがありますね。もちろん仏教とは関係のない行事であります。しかし、キリスト教の信者は人口の1%ほどとされる日本でX’masはなぜ浸透し定着したのでしょうか??(本来の宗教的意味とは全く違った形ではありますが…)
このような身近なコトに「どうしてなんだろう?」と疑問を持つのは自分自身を見つめる上でとても大切です。さて、そんな1つの機会になれれば、という『楽しい仏教入門』の次回開催は12/20(日)13~15時です。皆様ぜひ遊びにいらして下さいね♪では、良いお年をお迎えください!!弦

願海寺あれこれ

260年続いた江戸時代が終わり明治時代が始まる際、日本は大きな変革期を迎えます。そして、その中で仏教界にも大事件が起きます。
それまでの幕府という武家社会による統治から天皇による統治に移行していく中で、明治政府は天皇は神であるという国家神道を推し進めます。国家神道を推し進めるということは、それまで江戸幕府が寺(仏教)を保護し、また寺院の持つ地域性やつながりを活かして現在も残る檀家制度を作り戸籍を管理していた仕組みも目障りとなるのでした。
日本では仏教が伝来して以来、仏と神の線引きがほとんどなく、神も仏と共に祀られることが多かったのですが(神仏習合)、明治政府は神と仏とを切り離し、さらには多くの寺を廃寺にする合寺の令(廃合寺)という政策を進めます。
特にこの富山(富山藩)では「すべての寺院は一派一寺にあらため、家具・仏具をとりはらい、指定された場所に合寺すること」という厳しい内容で行われたのでした。(つづく)

Q『お寺には信心を得てから行くものなの?』

「亡くなったおばあちゃんは信心深かったからお寺参りにもよく行っていた」というようなお話をよく聞かせて頂きます。今月は「信心」の意味について考えさせて頂きましょう。「信心」とは「阿弥陀さまからのお救いを疑いなく頂くこと」であります。
つまり「信心」は自分で努力して得るものではなく、阿弥陀さまのほうから頂くものなのです。ですが、頂くといっても、ある日突然目の前に信心が降ってくるわけではありません。やはり、その信心を頂くに至るためのご縁が必要です。
たとえば、この新聞を読んでくださっていることだって、そのご縁の一つでありますね。機会があればお寺に行ってみようと思えることだってそうです。
その中で仏さまの光が心に届けば「あ、そうだったのか」と自らの姿が浮き彫りになります。自らの姿が浮き彫りになれば、そこには阿弥陀さまからのお救いの心を頂けるはずです。それこそが「信心」なのですね。すなわち「信心」は「信仰心」とは全く異なるのです。
さて、浄土真宗のみ教えを頂く私たちが最も大切にせねばならぬことがあります。それは「聴かせて頂くこと」です。これは「聴聞(ちょうもん)」といいます。
信心を頂けたからといっても「自分の価値基準」で様々なことを判断しているのでは仏教ではありません。私たちは阿弥陀さまからの光に照らされることによって常に我が身の煩悩の深さを確認し続けていかねばならないのです。
それは庭も手入れを怠るとすぐに雑草で埋めつくされてしまうのと同じです。庭の雑草なら眼に見えるので気付けますが、私たちの心は目に見えません。ですから、、お聴聞を通して自分の心と向き合い続けるしかないのです。
お寺は信心を頂く切っ掛けとなる場でもあり、また頂いた信心をお育て頂く場でもあるのです。皆様どうぞお気軽にお寺に遊びにいらして下さいね!
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞