発行:2016年1月
こんにちは!新しい一年が始まりましたね。本年も宜しくお願い致します!
「信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするように思うべきである。人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない」と蓮如上人はおっしゃっています。
この御言葉を「人生」「今日」に置き換えてみますと「いつもと同じ朝のようでも、新しいはじめての朝だと思うべきである」とも味あわせて頂けます。人生は短いです。い念仏とともに一日一日、一瞬一瞬を大切に生かせて頂きたいものです。
さて、次回の『楽しい仏教入門』は2/21(日)13:00~14:30の開催となります。是非、共に学びを深めましょう!弦
明治政府が国家神道を推し進めるために行った「合寺の令(廃合寺)」という政策は、ここ富山藩では激しさを極め、本願寺派(お西)・大谷派(お東)合わせ1320ほどあった真宗寺院を一ヶ所にまとめるというものでした(寺院数については234、あるいは243という説もありますが、正確なことが分かりません)。当然、僧侶やその一家もです。それほどのたくさんの人を一寺にまとめるとはどれほどのことでありましょうか、想像もできません。
もちろん願海寺も例外ではなく、この法難に巻き込まれます。
明治3年に「合寺の令」が発せられ、翌明治4年に五番町の境内地を没収となりました。このときに本堂や仏具は取り壊されましたが、梵鐘だけは疎開をし難を逃れました。
それが現在も高岡伏木の勝興寺様にて保管されている梵鐘です(第18~19号参照)。
これらの明治初期に起きた法難を指して一般に「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」とよばれます。
浄土真宗では「法名」、他の仏教宗派では「戒名」と呼ばれます。法名は「釈(釋)□□」というもので、私の法名は「釈巧弦(しゃくぎょうげん)」です。
みなさまもお仏壇にかけられた法名軸や過去帳などで目にされていることでしょう。まず、なぜ浄土真宗では「戒名」ではなく「法名」というのかですが、浄土真宗では戒律がありません(僧侶も一般の生活を営む「在家仏教」という立ち位置です)。もちろん、戒律がないというのは「何をしても良い」というわけではありません(これが一番多い浄土真宗への誤解かもしれません)。戒律という言葉の意味については詳しく述べますととても終わりませんので、ここでは簡潔に「仏教者が守るべき規範」とさせて頂きましょう。
たとえば「殺さない」「ウソをつかない」などです。
どうでしょうか?「そんなことは当たり前じゃないか」と思われますよね?
そうです、道徳的な思考の上では「殺さないなんて当たり前だし、自分は殺していないし」と思われるのが当然でしょう。ですが、直接的に命を奪っていないにしましても、私たちは生き物を食べて生きており、それは広い意味では命を奪っているのですね。害虫、雑草などと、人間の都合で命を奪ってもいます。さらには、たとえば生きるために職業として魚を獲る漁師さんには戒律を守れなくなります。
阿弥陀様は、このように戒律など守ることもできない私たちだからこそ「必ず救う」という誓願を起こされ、それを成就されている仏様なのですね。
そういった意味で、阿弥陀様のお救いを頂く私たち浄土真宗門信徒は戒律を授けられたという「戒名」ではなく、仏弟子であるという表明の「法名」を頂くのです。(つづく)
なもあみだぶつ♪