願海寺新聞 第41号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞

願海寺新聞 第41号

発行:2017年3月

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる

こんにちは!私事ですが、2月3日に三男が誕生致しました。これで男三兄弟、ゆくゆくはその中で誰か1人でも僧侶として歩んでくれるようになり、そして願海寺を背負って立っていってくれたら良いなと思ったりします。そして、その反面では、もし息子3人が誰も僧侶になりたくないと言った場合はそれでも良いだろうと思っています。
なぜかと言いますと、お寺ははるか遠いご先祖様たちから受け継いできた信頼関係と責任を守らなければならない任務だからです。
そして、お寺は家業ではありません。だから、本当にやる気のある人こそがやるべきだと思っています。と、子供たちがどうなるかを考えているよりも、まずは私自身がもっと頑張っていくことが第一です!今日の行動一つ一つ(因)が明日を、そして未来を作る(果)わけですからね!
なまんだぶつ なまんだぶつ 合掌 弦

願海寺あれこれ

これまで40号、3年4ヶ月に渡り、「願海寺あれこれ」として願海寺800年の歴史をご紹介致しました。浅学のため、また専門的な歴史知識も持ち合わせておりませんため、全く思うようには綴れずでしたが、たくさんの方よりご教示を頂きながら、また、この連載を楽しみにしていて下さった皆様からの応援によってここまで継続することができました!心より感謝申し上げます!
この連載を通じて改めて感じたのは、浄土真宗として800年の歴史を有する寺院は決して多くなく、しかも、歴代住職の名が全員伝わっていることも(一般寺院においては)大変希少であるという驚きでした。これは、願海寺の成り立ちが親鸞聖人とのつながりがあるということで、御先人方からずっと大切にされてきたことの証でしょう。言葉では言い尽くせないほどの大きく深い御恩を感じます。
そして、そこから決意を新たにせねばならないのは、この願海寺を生きた仏教をいま生きている私たちみんなで共に喜び聴聞していける寺院にしていかねばということです。それはすなわち「南無阿弥陀仏」の念仏が響く寺院ということです。
私たちが我が事として念仏を喜ぶ、それこそが御先人方・御先祖への何よりの報恩ともなるのです。

Q『四苦八苦ってなあに?②』

先月の「愛別離苦(あいべつりく)」は「別れ」の苦しみでした。今回は「怨憎会苦(おんぞうえく)」ですが、これは「嫌いな・怨めしい人とも会わねばならぬ苦しみです。「別れ」の苦しみだけにとどまらず、また「会う」ことも苦しみだとは…私たち人間の心とは本当に難しいものでありますね。しかし、社会生活を営むうえでは、必ず他者と関係し合いながら生きていかねばなりません。その中で、おそらく誰にでも嫌いな人…まぁ嫌いまではいかなくても苦手な人はいるはずだと思うのですが、そのような人たちとも付き合っていかざるを得ないわけです。そんな「怨憎会苦」を仏教の智慧(ちえ)によって如何(いか)に超えていけば良いかを今回と次回で考えてみたいと思います。
今回はまず1つ目としまして、お釈迦(しゃか)さまの次のような説話をご紹介致します。
~ある日、旅をしておられたお釈迦さま御一行は、人々から尊敬されるお釈迦さまをねたむ男から暴言を浴びせられますが、しかし、お釈迦さまはその間ずっと黙っておられました。その後、お弟子のひとりがお釈迦さまに「どうして黙っておられたのですか?」とお尋ねになったところ、お釈迦さまは「もし、あなたが誰かに贈り物を届けたときに、相手が贈り物を受け取らなかったとしたら、その贈り物は誰の物になりますか?自分のもとへ返ってきて自分の物となるわけです。このように、私は汚れた言葉を受け取らなかっただけなのだ。」とお答えになったそうです。
いかがでしょうか?私たちの周りにも人のイヤなことを言って楽しむ意地悪な人っていますよね。でも、その言葉を受け取るから腹が立つわけです。そして、やられた以上にしてやり返したくなる。これが私たち人間の愚かな有り様です。でも、だからこそ受け取らないように心がけるのです。確かになかなかうまくいかないでしょう。そんなときは「なんまんだぶ」と念仏してみて下さい。声に出せないときは心の中で「なんまんだぶ」と称えてください。念仏が聞こえる(称える)ならば、そこに仏さまからの「つまらんことでイライラしていては自分が損ですよ」という私への願いも確かに届いているのです。
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞