願海寺新聞 第45号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第45号

発行:2017年7月

こんにちは!もう7月、あっという間に2017年も残り半分を切りましたね~。6月は年に一度の永代・祠堂経法要もありましたが、皆様のおかげにより無事に終えることができました。また、11回目となった『楽しい仏教入門』も開催することができました。ありがとうございます!
私は常日頃「忙しい」と言わないように心がけているのですが、6月は本当に忙しい一ヶ月でした。そのため、今、〆切に追われながらこの新聞を書いています(笑)。来月からはちゃんと余裕をもって書くようにします。…って毎月思っているのですが、月末にならないと書けないこの成長の無さが情けない限りです…(笑)。
さて、昨今は宗門(浄土真宗本願寺派)内外で「これからのお寺・僧侶のありかた」について議論されています。「お寺」が時代や社会の変化に取り残された古臭いものという状況に陥ってしまい、消滅する寺院は今後どんどん増えていく一方です。ですが、それは仏様の光が、仏教のみ教えが古くなっているわけではございません。むしろ、この濁った時代においてこそ、その輝きは増すばかりです。その輝いた仏教に出遭えた喜びを胸に、み教えを皆様へしっかりお取り次ぎしていくために、勇気をもって新しい時代のお寺へと成長していかねばなりません。ピンチはチャンスです。日本仏教界に大きな変革が起きようとしているこの時代に生きていられることはとっても面白いと感じています。そして最も大切なのは「お寺は皆様のもの」ということです。皆様と一緒にステキなお寺を築きあげていきたいのです! 合掌 弦

善からぬこと、己のためにならぬことは、なし易い。
ためになること、善いことは、実に極めてなし難い。

Q『阿弥陀如来ってどういう存在なの?』

毎日、お仏壇(ぶつだん)にお参りをされている方はたくさんおられると思いますが、お仏壇の中央におわしますご本尊(ほんぞん)・阿弥陀仏(あみだぶつ)(如来(にょらい)とは、いったいどのような存在なのかを考えさせて頂きましょう!
「仏」はサンスクリット語「ブッダ」の音訳で「真理を悟った者」、「如来」はサンスクリット語「タターガタ」の意訳で「真如より現れ来った者」という意味でして、阿弥陀仏とは、「究極の智慧(ちえ)(無量の光)と慈悲(じひ)(無量の寿(いのち))を実践されている仏」なのです。
つまり、仏様は世の中をあるがままに見て、そして様々な区別・差別を超えて全ての命を平等に救うために巧みな手だてを用いて私たちにはたらきかけ続けて下さっているわけです。
そんな仏様に対して私たち人間は世の中をあるがままには見れず自分の都合で歪ませて見ており、自分自身に執着して我が身こそが一番かわいいとしか思えない存在です。
ですから、そんな私たちにとって、仏様とは目指すべき理想のすがたということであります。また、私がこの心の愚かさ至らなさに気付かせて頂くことができるのは、絶対真実である仏様と向き合わせて頂けるからこそです。それは、自分の影というものは強い光に照らされないと浮かび上がらないのと同じです。『正信偈(しょうしんげ)』は『帰命無量寿如来 南無不可思議光(きみょうむりょうじゅにょらい なもふかしぎこう)」と始まりますが、阿弥陀仏とは時間的にも空間的にも無限であり、何ものにも障(さまた)げられない光明(こうみょう)であると、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は様々な表現で讃えておられます。
私たちは顔の汚れは鏡で見ることができ、汚れていれば洗顔をしますが、心の濁りには自分で気付くことができません。この心の濁り(私自身の有り様)を映し出してくれる心の鏡となるのが、仏様からのおはたらき、すなわち「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」のお念仏です。心がドロドロに濁り切った私がいるからこそ、阿弥陀さまは「私にまかせなさい。ただ南無阿弥陀仏と称えなさい。念仏を称えるあなたのそばにいつでも一緒にいます。」とずっとずっと呼びかけ続けて下さっています。そして、その阿弥陀さまからの願いに出遭(であ)えた人は、念仏によって心の濁りはそのまま功徳(くどく)へ転じられていくという心豊かな人生を歩んでいけるのです。
なもあみだぶつ♪

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞