願海寺新聞 第48号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第48号

発行:2017年10月

こんにちは!いよいよ10月!1月9日~16日までの本山での御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)に先立って、この時期をピークに各寺院・各ご家庭での報恩講がお勤めされます。真宗ではお盆はあまり大きく取り扱わないため「その理由などに関しましてはまた改めて書きます!)、真宗僧侶にとってはこの時期が最も体力的にハードになります「特に長時間の正座が…笑)。そんな報恩講ですが年々縮小傾向にあるようです。それは社会や家庭形態の急激な変化によるところも大きいですが、お寺側の旧態依然としたやり方も大きな問題であろうと思っています。皆様にとって報恩講をはじめとする法要・仏事は「仕方なく行くもの」という「ガマン大会」になってしまっているのではないでしょうか?また、お寺には初めての人が入っていきにくい雰囲気もあるのでしょう。阿弥陀如来のお慈悲の御心は「光」にたとえられています。「いつでも・どこでも・誰にでも平等に」という光です。それはずっと変わりません。ですが、その「光」の伝わり方は時代と共に変化・成長をしてゆかねばなりません。願海寺も皆様のお声を頂きながら、共に新しい「在り方」を創造していければと思います!今年も報恩講が、一人でも多くの方が仏様の光と出遭える縁となりますよう念じております♪ 合掌 弦

人は世間の情にとらわれて生活しているが結局独りで生れて独りで死に独りで来て独りで去るのである

Q『阿弥陀如来の救いってどういうこと?②』

南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)の念仏ひとつで救われる」ことが浄土真宗(じょうどしんしゅう)の救いだと聞いて私たちが思うのは、「死んで救われるのだから今の私には関係がない」ということではないでしょうか?確かに往生し成仏する(仏と成らせて頂く)のは、この世での命を終えるときのことです。ですが、必ず仏と成れることは「南無阿弥陀仏」と疑わずにお念仏(ねんぶつ)させて頂けたそのとき、つまり、「南無阿弥陀仏」を疑わずに聞くことができたときに定めて頂けるのでありまして、この位(くらい)を「正定聚(しょうじょうじゅ)」といいます。死ぬまでどうなるか分からんのではないのです。もうすでに定められているのです。なぜならそれが阿弥陀仏(あみだぶつ)の願いであり、その願いが成就した力だからです。さらには、仏の願いが心に届いたその人は「不退転(ふたいてん)」といって二度とそこから退いてしまうこともなくなります。この「正定聚 布退転」という位に定めて頂ける救いに私たちは今この命を生きながらにしてあずかっているのであります。
では、「正定聚 不退転」の救いによって現実的に私はどう変わっていくかを考えてみます。例えば、帰る家の無い旅と、帰る家の有る旅では、どちらが安心して旅ができるでしょう?帰る家が無い旅では常に不安がつきまとい、身心も、金銭的にも消耗していくばかりです。この旅とは私たちの人生です。人生には必ず終わりが来ます。愚(おろ)かな私は「自分が死ぬ」ということを二の次に考え未来への希望ばかり考えていますが、未来は「未(いま)だ来ていない」と書くように、私に未来が来る保証はどこにもなく、私にとって間違いないのは死は必ずやってくるということだけです。だから、この人生というたびの終わりに帰っていける家である「いのち」の世界をハッキリしておくこと、つまり「生死(しょうじ)出(い)ずべき道」を教えて頂くことによって限りある命を如何(いか)に生き抜くべきかという問いと、前向きな勇気が育まれ、心豊かな人生が開かれていくのだと、私は真宗のみ教えからお味わいしております。
救いとは死後のことだけではなく、また真の幸せとは自分の考えを頼りにしてなれるのでありません。念仏によって仏様からの「我(われ)にまかせよ」という御心を聞かせて頂くのみなのです。
なもあみだぶつ♪

行事案内

報恩講法要   11/3(金・祝)11/4(土)
        両日共に10:00~14:00

お経を称える会 11/11(土)18:00~19:30 
        11/12(日)13:30~15:00

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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