願海寺新聞 第49号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第49号

発行:2017年11月

こんにちは!各寺院での報恩講法要や、ご門徒様ご家庭への報恩講参りで充実した日々です。
そんな中、長男の幼稚園が出場するサッカー大会に向けてのコーチをなぜか私がやらせて頂くことになってしまい、9月下旬から幼稚園での朝練に参加していました(笑)。大会は10月下旬に無事に終わったのですが、子供たちが頑張っている姿に感動させられたり、子供たちが分かりやすく伝える難しさにぶつかったりしながら、たくさんの学びを頂けたご縁でございました。特に、親(大人)としては子供のことを思っているつもりで色々と指示を出したりするのですが、本当に子供のためを思うのであれば何も言わずにだまって見守ってやることが一番大切ということを学べたのは大きな収穫です。このことは頭では分かっているつもりでも本当に難しいことです。親子であっても子供は一人の人間であり親が支配するロボットではない。だからきちんと一人の人間として敬いをもって接していくことでお互いに成長していくことができるのでしょうね。本当に反省ばかりであります。学びに感謝。なまんだぶつ なまんだぶつ 合掌 弦

親鸞さま 教えにしたがって道を求めることがないのは 完全な信ではない。

Q『念仏を称えるってどいうこと?』

私たちはともすると「仏教は死者を弔うためのもの(追善供養)(ついぜんくよう)」と考えがちですが、阿弥陀如来(仏)が「必ず救う」と願い、はたらきかけて下さっている対象は他でもない「この私」であります。そして、「この私」が実際にいつ救われるのかは死後ではなく「いま」であり、その救いとは決して私たち人間の自我・欲望(煩悩(ぼんのう))を満たすことではなく、「生死(しょうじ)を超えた大いなるいのちへの目覚め」ということです。
また、阿弥陀如来は私たちの目に見える実体をもった存在ではありません。ですが、だからといって私たちと分断された関係では決してなく、私の「いのち」の源であり、まさにいま私を包んでいて下さっているのであり、さらには私の心の内へと到来されている存在です。
その阿弥陀如来が、いまこの私を救うための喚(よ)び声となって私に届いているすがたが「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」であります。「南無阿弥陀仏」が如来からの喚び声ということは、念仏(ねんぶつ)は私が称えているのではなく、私は聞かせて頂いているのです。このように浄土真宗(じょうどしんしゅう)の念仏とは「聞名(もんみょう)」であり、仏の名を聞くということなのです。
そして、「南無阿弥陀仏」を疑わずにそのまま聞けたことを「信心(しんじん)」と申しますが、「信心」とは「信じる・信じられる」という信仰を表す意味ではなく、原典となるインド・サンスクリット語の経典では「チッタ・プラサ-ダ」で「心が清浄(しょうじょう)になる」という意味をもつそうです。
つまり「阿弥陀如来=南無阿弥陀仏」という光に照らされることによって私の心の底の底までが映しだされ、そのドロドロに黒く濁(にご)った様を知らされますが、またその光によって濁りは転じられ清浄な心にされていくのです。すなわち、仏の名を聞く(念仏を称える)ということは、いつも自分中心でしかいられない自我の殻(から)が破られ、私を人間としてお育て下さるということです。大事なのは、「心が清浄になる」ことは頭で理解していくものではありません。とにかくただ仏の名を聞く(念仏する)こと一つによって身心をもって感得していくものなのです。だからまずは声に出して共にお念仏してみませんか?!
なもあみだぶつ♪

行事案内

お経を称える会 11/11(土)18:30~20:00 
        11/12(日)13:30~15:00

第14回楽しい仏教入門 12/15(金)18:00~19:30 
           12/16(土)13:30~15:00

僧侶似顔絵
村上 巧弦
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