願海寺新聞 第75号 – 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺 浄土真宗本願寺派 新井山 願海寺

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願海寺新聞 第75号

発行:2020年1月

こんにちは!新しい一年が始まりましたね。本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

先日「お寺がもし無くなったら困る。でもお寺のために何ができるか分からない」という内容のご質問を頂きました。近頃は「所属寺なんて別にどこでも良い。葬式と先祖供養だけしてくれていたら坊さん誰でも構わない」と考える人が増えているそうなので、そんな中でとても尊いお心だなと感服いたしました。私としては「お寺は住職一家の所有物でも家業でもなく、ご門徒みんなのものです。ですので、ご自身が積極的にお寺の法要や行事に参加なさることが、お寺におって一番の活性化の力となると思います」とお伝えしました。この方は願海寺のご門徒さまではありませんでしたが、願海寺も門信徒の皆様から大切に思われ集って頂けるお寺であれるよう精進していく所存であります。

合掌 南無阿弥陀仏 弦

~仏説観無量寿経~

無量寿仏の身量は無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。

 

『歎異抄ってなぁに?~第十三条編②~』

「薬あればとて、毒を好むべからず」
「持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきや」

『歎異抄』第十三条では、浄土真宗の教えについての誤った解釈を正すため、冒頭に掲げました宗祖・親鸞聖人の御法語などを根拠として、著者とされる唯円さまが示していかれます。
まず、当時「阿弥陀如来の本願は全ての者を救うというものだから、どんな悪も恐れることはないという者たちがいるが、それでは往生できない」と主張する人たちがいたそうです。著者はそれに対し本願を疑うことであると諫められます。そして、善い行いも悪い行いも宿業(はるかな過去からずっとつながってきたご縁)によるものであると説かれ、条件(業縁)さえ調ってしまえば人をも殺めてしないかねない私なのだという「ひと千人ころしてんや」の御法話シーンとなります(第74号参照)。
私の行為の善し悪しによって救われる、救われないではなく、どうしても離れることのできない根源的な悪を抱えるこの私だからこそ必ず救うというのが本願の御心であります。だが、往生のさまたげにはならぬからといって、わざと悪い行いをするのはやめなさいと説かれます。
つまり、「善い行いを積み重ねていくべき」という考え(専修賢善)を否定する一方で、「悪人こそを救うという本願だから悪いことはしても良い」という本願に甘えてつけあがる考え(造悪無碍)も否定していかれるわけです。「善」「悪」どちらに偏ってもいけないということです。
私たちは物事を自分の目で見て、自分の知識・常識で考え、その上で善悪を判別しています。しかし、それがあくまで「自分」を中心とした見方である以上、そこには認識の歪みが生じ、自分が「善」で他者が「悪」という思考に陥ってしまいがちです。けれど、よくよく考えてみますと、「自分」ほど不確かなものはありません。そんな不確かな私の思う「善悪」もまた不確かであるわけです。
如来のまことの心(南無阿弥陀仏)に出遇うとき、虚仮(うそいつわり)の私に気付かされ、「自分」という存在が揺さぶられていく。それが浄土真宗の他力の仏道であります。
なもあみだぶつ♪

クイズ

「報恩講」という名称は親鸞さまの何回忌から呼ばれるようになったでしょうか?

1. 333回忌
2. 3回忌
3. 33回忌

■先月の答えは「2.旧暦か新暦の違い」でした!

僧侶似顔絵
村上 巧弦
願海寺新聞