発行:2020年8月
こんにちは!新型コロナ感染拡大の影響で中止となった7月12日『願海寺栃津房舎お勤め』でしたが、当日は私・巧弦(と友人僧侶)でお勤めだけさせて頂いてきました。来年こそはまた皆様で集いお勤めができると良いなと念じおります。しかし、この栃津房舎の本堂も六角堂(親鸞聖人のお墓)も、相当に傷みが激しくなってきており、このまま静観していたなら崩壊が危惧されています。現状では文化財指定は難しいらしいので、なんとか願海寺として修復に向けて動いていかねばなりません。
もちろん、世の中は諸行無常ですから、形あるものは必ず壊れゆきます。それは真理であり、受け入れねば仏教ではありません。その一方で、願海寺800年の歴史において、その場所が大切に守り受け継がれ、200~250年程前に現在残る本堂や六角堂などが築かれたのは、御先人方が宗祖・親鸞聖人を追慕し、そしてその念仏のみ教えを未来の人々(つまり私たち)まで伝えたいという思いがあったからこそでしょうから、「物」として壊すことは簡単かもしれませんが、御先人方からの思いが私に届いている上は、ここをまた未来の人たちに残し伝えるよう努力さいていかねばならぬと思うのです。大変なプロジェクトになるでしょうが、門信徒の皆様のご意見やお力添えもお願いしながら、修復に向けて進展させて進展させていきたい所存であります。
合掌 南無阿弥陀仏
(巧弦)
法を灯火とし、よりどころとせよ。
『大般涅槃経』
人類は古来、自然にも霊魂や精霊が宿るという宗教観を持っていました。それをアニミズム(Animism)といいます。アニメというのも、このアニミズムが語源なのだそうです。
ここ富山におきましても、立山連峰への信仰というものが伝わってきました。自然を敬い、自然を畏れ、その大いなる力を崇拝して歩んできたのです。そして、それを「カミ」と呼びました。自然発生的な宗教心ですので、当然そこには教祖だったり、体系的な教えがあったりはしません。このような信仰のことを「原始宗教」と呼びます。それらの要素が融合し発展して、日本では神道といった宗教形態へなっていきました。
ちなみに、現代の日本では「仏教(寺院)」「神道(神社)」と明確に区別していますが、これも明治初頭に神仏分離という国家政策が執られたことによります。それ以前は神仏習合といって、神社に経典が納められていたり、お寺の境内に神が祀られていたり、仏教と神道は日本の文化の中で混ざり合って共存していたのでありました。
さて、生き物(有情)だけでなく、草木など自然(無情)にも「いのち」が宿っているとみることは、命を「物」としか見れなくなってしまっている私たち現代人にはとても大切な感覚でしょう。
お肉やお魚を見て「美味しそう」と思うわけですが、それらは殺して奪った命なのです。その命への懺悔の心は人間として失ってはなりません。また、草木が風に揺られているのを見て、何か私に語りかけてくれているように感じてホッとしたりすることってありませんか?!
みんなが「いのち」をもって生きている。そして、それぞれの「いのち」が単独で生きているのではなく、お互いの「いのち」と「いのち」とが関係し合って生きている。つまり、生かされ、生かし合いこの世界が成り立っている。その関係性のことを大乗仏教では「縁起」と申すのです。
そうやって、みんなの「いのち」に思いを馳せることで、私たちの心に優しさ、穏やかさが育まれていくのではないでしょうか。その「気付き」を頂けるのも「宗教」の大きな力です。
なもあみだぶつ♪
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と、『正信偈』は一句7言×120句から成っていますが、以下の中で1つ、実際に出てくるのはどれでしょうか?
①極重悪人唯称仏
②感染拡大要警戒
③称南無阿弥陀仏
■先月の答えは「②智慧と慈悲」でした♪