発行:2021年9月
こんにちは。もうすぐ100号ですが、創刊号から今まで数えるほどしか登場しておりませんでしたので「たまにはね」というわけで…久々に私がコラムを書いてみます。
さて先日、ご門徒様のおうちの玄関に、たくさんの鈴虫がおり、見ておりましたところ、何匹か分けて下さるということで、我が家にも鈴虫がやってまいりました。朝晩問わずキレイな鳴き声が聞こえてきて、夏の終わりを感じます(カゴにマットを敷いて、エサも住居も完ペキにした状態でおゆずり下さいました。ありがとうございます)。
一般的には気候変動により、昔に比べて季節を感じにくくなってきていますが、今はお寺にとっては一番秋を感じられる季節です。どのお墓にも色とりどりの花がお供えされて、風も少し涼しくなってくる中でお参りできる、お盆~お彼岸は、なかなか良いものです。お盆に来られたばかりで、そう頻繁には足を運べないという方もおられるかもしれませんが、また是非、お彼岸にもお越し下さいませ。
(9月20日 彼岸入り 9月26日 彼岸明け)
(智)
まさにあひ敬愛して あひ憎嫉すること なかるべし。
[互いに敬い親しみあって、憎みねたんではならない]
『仏説無量寿経(巻下)』
江戸時代が終わり明治時代を迎え、日本の宗教事情には変革が続いてゆきます。
古来、日本人は一般に「神」と「仏」を明確に区別せずに敬ってきました。ですから、昔はお寺の境内に神も祀られていることはよくある光景だったようです。
しかし、明治新政府は、それを改め、神と仏とを切り離す政策を布きました。これを「神仏分離」といいます。
では、なぜわざわざそんなことを行ったのでしょうか?天皇をもって人心を掌握し国を統治するために、天皇=神であるというところを強調していく必要があったのです。そこで、国家として神道という宗教を推し進めていったわけです。
その流れが波及する中で、仏教寺院に対して各地で「廃仏毀釈」という弾圧が起きます。
仏教寺院への処置については各藩に任されていたため、地域によって大きく差はありましたが、富山藩においては各宗それぞれ一つのお寺にまとめるというものでした。これを「合寺令」といいます。富山藩には浄土真宗のお寺が東西(大谷派・本願寺派)合わせて200以上(資料によって異なります)あったのを一つにまとめるということですから、無茶苦茶としか言いようがありません。普通に考えれば、こんな無茶なことは反対意見なども出て取り下げられそうに思うのですが、富山藩は武力を伴って強行します。
このとき、ほとんどのお寺で本堂や仏具が壊され、住む場所も奪われた僧侶とその家族は、かつて梅沢町にあった富山常楽寺(現在の場所は富山市浜黒崎)にすし詰めにされたそうです。もちろん、当時五番町にあった願海寺も、江戸時代に200年間もあったその境内地を奪われてしまっています。
廃仏毀釈は他には九州などで厳しく行われ、鹿児島県では江戸末期には1066あったお寺が明治7年までにゼロになってしまったそうです。
大きな力が急速に動くときには、歪みが生じやすくなります。大きな力の持つ熱狂性に飲まれて極端な方向へとかたよってしまわないよう、気を付けていきたいものであります。
なもあみだぶつ♪
廃仏毀釈の際、願海寺から難を逃れた“ある物”が現在も高岡・伏木 勝興寺さまに保管されています。さて、それは何でしょう?
①スイス製の時計
②梵鐘(つり鐘)
③火縄銃
先月の答えは「3.現在の富山市立中央小学校のあたり」でした!