詳細は追ってお知らせ致します。
※ご門徒さまでなくても、どなた様もご参詣ください。
※本堂はイスもあります(正座不要です)。
※お申し込みはご不要です。直接、本堂までお越しください。
※本堂に入られましたら、左手にございます受付にて、記帳をお願い致します。
※お布施はお気持ちで結構です。受付にてお願い致します。
※お車でお越しの際の駐車は願海寺境内、または近隣の長源寺様の境内をお借りしておりますのでご利用ください。
願海寺(浄土真宗本願寺派)は、親鸞聖人 越後時代の直弟子・願海房信性(がんかいぼう しんしょう)が開基です。その初代・願海房は、承元元(1207)年に京都で起きた専修念仏弾圧により流罪となった親鸞聖人と越後国国府(現在の新潟県上越市)で出会い、出家し弟子となりました。聖人より、居多ケ浜(こたがはま)の舟中で教化をいただき、「本願の深く広いことは、弥陀の智願海である」と願海房(房号)と信性という名を与えられたそうです。
建暦元(1211)年に親鸞聖人の流罪が勅免となり、聖人は関東へと布教に移られる際に、お供を懇願する願海房に対し「汝は越中に至り、彼の地に弥陀の本願を伝うべし」とおさとしになり越中への布教を託されました。
越中へ移った願海房は新川県栃津(立山町栃津)に一寺を建立し布教に励み、延応元(1239)年に81歳で往生します。願海房の名は「越中三坊主」としても知られ、存覚上人の『存覚袖日記』にみえる「水橋門徒」とも関係があると考えられる他、少し時代が下っての『親鸞遺徳法輪集(1710年刊)』(宗誓 著:黒部・願楽寺)『大谷遺跡録(おおたにゆいせきろく)(1771年刊)』(先啓 著:1720~1797 大谷派の学僧、岐阜県・安福寺)、にも記述があります。
弘長二(1261)年には京都に戻っておられた親鸞聖人が90歳で往生されます。御看病に伺っていた願海房二代・清寿(せいじゅ)は親鸞聖人の長女・小黒の女房さまの子であり、聖人から見れば孫にあたるため、聖人の身辺のお世話をされていた末娘・覚信尼さま(小黒の女房さまの妹)より御分骨を頂戴致します。そして清寿は、越中に持ち帰った聖人の御分骨を、栃津の地に丁寧にご供養したそうです。
このように、今から約800年もの昔に初代・願海坊によって創建された願海寺ですが、その発祥の地である立山町栃津の境内地は、栃津のご門徒様から「お墓所」と呼び親しまれながら先祖代々現在まで大切に守り続けられております。ここには江戸時代に建立された本堂、親鸞聖人御分骨六角堂、初代願海房・願海寺歴代住職・願海寺歴代坊守の墓などが伝わり、中でも親鸞聖人のお墓は越中・富山では唯一であり、まさに越中における浄土真宗の聖地ともいえる地です。
この栃津房舎では、毎年夏に願海寺の門信徒さまを中心に報恩講のおつとめを厳修しています。電気は裸電球一つのみ、ガス、水道もない、まさに何百年も変わることのない厳かなその場所と空気の中で、遠く御先人方から受け継がれてきた御恩に思いを馳せ、共にお念仏を喜ばせて頂きましょう。
※ 本堂は入堂可能人数に限りがあります。
ご参加希望の方は事前に願海寺までお申し込みください。
※ 場所が分からない方は14寺過ぎに願海寺境内へお集まりください。
※ 栃津墓所には駐車場がなく、近隣の方のご厚意で駐車させて頂いておりますので、
ご迷惑にならないようご注意ください。
※ 車(移動手段)が無い方は遠慮なくご相談ください。
※ 栃津房舎へは少しの段差道がございます。
※ 栃津房舎にはお手洗いがございません。
また、近隣にもございませんので事前にお済ませください。
※ 岩峅寺駅より徒歩での所要時間は約30分です。
午前一座のみでのお勤めとなります。
どなた様もお気軽にお参りください。
※ご門徒さまでなくても、どなた様もご参詣ください。
※本堂はイスもあります(正座不要です)。
※お申し込みはご不要です。直接、本堂までお越しください。
※本堂に入られましたら、左手にございます受付にて、記帳をお願い致します。
※お布施はお気持ちで結構です。受付にてお願い致します。
※お車でお越しの際の駐車は願海寺境内、または近隣の長源寺様の境内をお借りしておりますので
ご利用ください。